福の蔵 そくじょうとは お福日和ブログ 商品一覧 アクセスマップ 通販蔵 お知らせ
  お福酒造は、明治30年(1897年)9月、創業者岸五郎により「岸五郎商店」として誕生しました。酒蔵は、長岡の中心部より南東へ約5キロのところへ位置し、豊富な山林と清冽な自然清水を湛える長岡東山山系の麓に建てられております。
  酒造業への転換は、当時珍しい醸造技師であり醸造研究者でもあった関五郎が、岸家へ婿養子として迎え入れられたことが契機でした。 五郎は東京工業学校(現東京工業大学)の応用学科で発酵学、醸造学を勉強し卒業後も埼玉県で醸造技師を務める傍ら、醸造用水加工や酵母の培養についての研究を
続け、その集大成として明治27年、酒造りについての専門書「醸海拾玉(じょうかいしゅうぎょく)」を発刊しました。 この「醸海拾玉」は当時、杜氏の勘に頼っていた酒造りを化学的見地から説いた酒造り教本で、特に醸造用水の加工研究は、軟水による酒造りをいち早く可能にし、又「酒母への乳酸添加応用」は野生酵母を排除、適正酵母の純粋培養に成功し、当時恐れられていた腐造を防ぐことを可能にしたことで醸造業界に大きな旋風を巻き起こしました。この技術は後に江田鎌次郎氏により「速醸もと(そくじょうもと)」として、体系付けられました。   このような功績により、創業者岸五郎は、醸造協会主催第1回全国清酒品評会の主任審査員及び主任評議委員を務め、昭和16年には醸友会全国醸造技術功労者第1号を頂き、昭和33年には醸造界初の黄綬褒章を受賞しました。
  岸五郎商店は、昭和24年9月にお福酒造株式会社に改組されました。
  これには、初代岸五郎の酒造りの研究機関の場から、酒製造機関への転換を意図され実施されたようですが、実際は商売よりも常に酒質向上の研究が主体であったのです。

「醸造は、一つの活劇場なり、

その千変万化、究極とするところなかるべし」


  これは、岸五郎の口癖であった言葉といわれます。当時は、冷却装置も無く、自然の気温や湿度を見極め、その都度修正して、酒を醸していた様子が伺える言葉です。
また詰口段階においても五郎の精神が受け継がれ、活性炭使用と濾過は最小限に留め、酒本来の味を大切にするということ、飲み飽きせず飲んだときに幸福感を味わえるよう、心地よい上品な甘みを残す酒質は、当時から不変のお福酒造の味わいです。
  岸五郎から命名された「お福正宗」は、岸五郎の『飲むほどに、お客様にも、蔵人にも福が招かれるように』と言う気持ちにあるからなのです。

  品質の良い酒造りのためなら資金を厭わず、骨身を惜しまず、全身全霊を込めて取り組んだ酒を今もなお、継承しています。
  お福酒造では、淡麗辛口の時代にあって、旨みの乗った豊潤な味を貫くことが基本であり、飲むほどに幸福感の味わえる酒、存在感のある酒の味わいを追求してきました。


「米をたっぷり使用し、

あえて旨みののる味わいを貫く」



  醸造法としては、コスト度外視の酒造法ではありますが、濾過を最小限にし、蔵癖を出し、個性のある酒造りを目指しているからこそ、お福酒造では一貫して、「速醸もと」を使用しています。

  なぜなら、創業者岸五郎が、明治の時代、全身全霊を傾注し、酒質の向上とともに、蔵の安全性を目指して研究した酒造法であり、そこには、一子相伝の技術があるからなのです。

  だから、お福酒造は「新潟の酒」でなく、「長岡の地酒」であり続けることを選んだのです。
  岸 五郎は、明治元年(1868)生まれ。東京工業学校(現在の東京工業大学)へ進学し、応用化学科で醸造学を専攻します。当時は、国を挙げて西洋の知識と技術による“富国強兵・殖産興業”が推進され、酒造業にも近代文明を応用しようとしていました。
  五郎は東京・上野の図書館に通っては、西洋の文献を山と読破します。
  また卒業後には、埼玉県や遠く灘の酒蔵で研究を重ね、長岡帰郷後には多くの蔵元指導に力を注いだのです。
  五郎は、正式な酒造専門書を早い時期に執筆しています。

  関 五郎松 著と書かれた古い書籍「醸海拾玉(じょうかいしゅうぎょく)」と題されたその本が出版されたのは、何と明治27年(1894)。五郎が、弱冠26歳の時なのです。
  30歳にして蔵元となった岸 五郎ですが、酒造研究者としての哲学は生涯を通じて矜持したようです。その証しとも言えるのが、明治42年(1909)の大蔵省による乳酸応用速醸もとの開発。
  画期的なこの酒母は、五郎が発見した乳酸発酵を応用したものでした。
  当時の大蔵省技術者はお福酒造を訪れ、乳酸実験に皆驚いたようです。
  その偉大な成果が、日本の醸造業界を発展させてきました。
  後年、五郎が第一人者であることは業界の誰もが認め、称賛するところとなり、昭和33年(1958)黄綬褒章を受章したのです。
  里山保全に協力したいという思いから、また地域性や独自性を生かした酒造りをすることが、地域を活性化できると考え、山古志村との取り組みがはじまりました。
  当時はの山古志は、日本唯一の一郡一村であり、棚田保護や、地域産業である、牛の角突き(無形文化財)、錦鯉、山菜などで、環境及び観光資源は整っており、この資源を有効に活用し酒造りを行いました。   2004年10月24日 新潟県中越大震災により、お福酒造醸造蔵、精米工場倒壊とともに、山古志の棚田も壊滅し、翌年2月まで醸造は不可能となりましたが、長岡復興の強い願い、さまざまな方たちの協力により、2007年2月に山古志酒米生産者協議会を発足するまでに至り、 2007年12月には、念願の酒蔵が復興し、その象徴として、清酒「山古志」を醸造することができました。
現在では多くの皆様にご愛飲いただいております。
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